田舎っぺ文化?!

田舎っぺと云う言葉をご存知ですか。この言葉は云うまでも無く地方出身者に対する蔑称ですが、私は勿論、地方出身の方に対する偏見、差別感など全くございません。たまたま、過日友人との会話の中で、昨今の世相の移り変わりを話しました。その中で、「今は田舎っぺ文化全盛の時代だ」との友人の発言があり、会話は暫らく田舎っぺ文化について話しは弾みました。

今日は、その田舎っぺ文化についてお話しいたします。戦後の昭和20年代30年代は未だしも、昭和の40年頃から、目立って地方出身の方が都会へ出て、定住されるようになりました。それは今現在までも続き、結果として、地方の過疎化が進んでおります。その所為かどうかは、必ずしも明らかではありませんが、身近なところで感じるのは、転居の際の引越し時に、かつては隣近所に引越し蕎麦を配るとか、タオル、手拭などを持ち挨拶に廻るとかしたものですが、今は殆ど、そのような事は見られなくなりました。このようなことは所詮大したことではないのですが以前ですと、怠れば常識知らずと非難されたものです。

また、年の初めのご挨拶で、近所廻りを相互にし合ったものですが、これも今は殆ど見られなくなりました。これらのことは、以前には近隣の人々を大切にし、何かの時には自分もまた、扶助を受けると云う近隣文化の一つの形であったと思います。さてそこで、一つのお話しをいたします。私の知り合いが最近引越しをし、隣近所にご挨拶廻りをしたのですが、その折、隣のお宅に伺ったところ、頂き物をしても、お返しが出来ないので頂く訳にはいきませんと拒絶をされたと云っているのを聞きましたが、先方に悪意はないものの吃驚したとのことで、私も本当にそんな人が居るのだと改めて感じました。

私自身の体験でも、夜更けの帰宅途中、暗い公園の傍で横たわっているのを見たことがあります。傍に寄り、声を掛けようとしたのですが、少々離れた処に男性2人が立っていて、救急車を今呼んだからとのことで、それは良かったと思ったのですが、更に言葉を次いで「関りにならないほうがいいですよ。」と云われ思わず、そのまま立ち去りました。しかし後になり、せめて声ぐらい掛けて上げれば良かったと思いました。この様に身近なところでも、些細なことですが風習、気配りが変わって来ています。これが良いか悪いかは一概には云えません。お互いに干渉し合わない方が気楽ですむからです。しかし、私は現代の生活は、ややもすると自己主張が強く、自分の権利は侵害されたくない、他人のことは無関心を装う傾向が強まっているように思われます。私の友人は、これ等のことを指して田舎っぺ文化と評しました。確かに他人に対する思いやり、労わりが欠けてきて、礼を以って人に接すると云う慣習が、急速に廃れつつあるように見受けられます。これ等の慣習を知っていて行わないと云うならば、それは一つの見識なのかも知れません。しかし、知らないと云うのであれば、それは少々問題で、だからこそ私の友人はそれは田舎っぺ文化だと云うのです。

私どもの生業とする呉服なども、この礼を主体とする伝統文化の中で発展を遂げてきました。私どもだけではありません。和の文化は全て日本の伝統、慣習の中で発達してきたものです。その意味合い、意義を知り取捨選択をするならば、それは一つの見識であり、見方を変えれば文化の発達とも云えるでしょう。しかし、知らないで評価もせずに面倒だからでは、友人の云うが如く田舎っぺ文化と酷評されても、致し方ないのではと思います。これをご覧になった方は私も含めてお互いに、田舎っぺと云われないように心掛けたいものです。

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敢て今、物申す! VOL。2

 最近は本当に祝日と云う休日が増え過ぎたように思えます。昨年も更に祝日を増やすと云う話が某政党から出されましたが、さすがに実現しませんでした。 豊かさが本当に定着したのなら、労働時間の短縮も結構です。しかし、休日ではあっても、遊びに行くゆとりもなく、ひねもす家で怠惰な時間を過ごす、こんな事で良い日本が成り立つ訳がありません。

大分に昔のことではありますが、ヨ-ロッパ、ILOの勧告で労働時間の短縮が盛んに唱えられた時期がありました。その結果、各国の労働生産性が落ち、イギリス病とか、驚異復興と云われたドイツも東西ドイツの合併もありましたが,長らく経済運営の厳しさに悩むことになったことが思い出されます。 しかし、ヨ-ロッパは古くから世界の先進国で、社会基盤の整備状況が日本とは大きく異なります。 日本人はもっと働かなくてはいけないと思います。働くことにより労働生産性を上げ、また、新たな労働市場も創出することも出来ると思います。 それでなくても、中小企業の多くは所謂サ-ビス残業があるのが実態で、それもかなりの長時間と云うのが現実と思います。今の日本経済を考えれば、週40時間の労働時間と云うのではとても無理で、それは実質、建前だけではありませんか。このお役所の建前と云うのが、真実を隠し日本の国を悪くしている要因の一つだと思います。それよりも日本人はもっと働いて、社会資本を充実し、名実共に豊かな国になることが先決だと思います。そして、この豊かさをもって、世界の恵まれない人々の為に貢献出来れば,日本人は働き過ぎだとの過去にあった非難も受けることはないと思います。 

次に多くの異論があるとは思いますが、私は30年来、石油を原料とする燃料依存を止めるべきとの考えの持ち主で、特に自動車の燃料は、地球温暖化の防止の意味からも、また、貴重な天然資源の枯渇防止の意味からも思い切った消費抑制策を、而も緊急に採る必要があると思います。 現在は国会でも暫定税率の存続、廃止と云うことで議論されておりますが、聞くところによれば、ヨ-ロッパの国々では日本より遙に高い価格で流通しているとか、だから、日本でも高くても良いとは私も思いません。 しかし、この問題はもはや放置できるものではありません。今年、日本で開催されるサミットの主要議題もCO2の排出抑制問題だそうですが、これは化石燃料からの脱却を図るしか、途はないと思います。 それには現在ℓ当たり¥150程度のガソリンを、¥500程度にしたらどうでしょうか。多分こんな事を申し上げれば、無茶苦茶だとの非難を浴びるでしょうが、私は大真面目で提案したいのです。 かつて私が車を最も乗り回していた頃、ガソリンはℓ当たり¥50を越えない程度でした。それが今や、3倍の¥150です。当時を考えれば、想像もできない値段です。 ですから、今の値段が仮に更に3倍になったとしても、使う人は使うでしょうし、さほど大きな必要性がなければ、使用を抑制するでしょう。 勿論、影響を過大に受ける人もいるでしょう。そのような人々には施策で負担の緩和措置を講じれば良いでしょう。しかし、もしこれが実現できれば、地球環境の改善に世界に対して大きなリ-ダ-シップを取ることが出来ると思います。 また、差額が税として徴収できるならば、巨額な財源となることは間違いがないのですから、例えば消費税の廃止だとて夢ではありませんし、福祉の財源としても大いに活用できると思います。一方、ガソリンがℓ¥500にもなれば、水素を燃料とする車の実用化も、早急に実現されるでしょう。そうすれば一気に無公害社会が生まれるかもしれません。

 更には、アラブ世界を中心とする世界の石油成金国家や個人に一泡噴かせることが出来るかも知れません。 高い原油価格で石油を売りつけ、得た莫大なお金で、先物市場で原油先物を買い、価格を高騰させ、更に莫大な利益を得る。こんな不条理なことを許して良い筈はありません。 自由主義経済は世界に活力をもたらしました。しかし、自由と云う名の基に、最近はなんでもありの弊害が、世界でも、日本でも、目立つようになりました。 行き過ぎは及ばざるが如しであります。行き過ぎを、先ずは日本から正してみようではありませんか。 

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敢て今、物申す VOL。1

前回のブログで現代の世相、文化について申し上げたのですが、拙い文章の為、私の真意をお伝えすることが出来なかった向きもございますので、今回は敢えて政治向きのことなども含めて申し上げたいと存じます。

本日、ここに申し上げる事は私の予てよりの持論でありまして、昨日、今日に思いついたことではありません。本来私は保守的な考え方の持ち主で、だからこそ今日まで斜陽の呉服業を続けてきたのだと考えております。 昨今の呉服業も大変酷いことになっているのですが、それはともかく、昨今の世相は余りにも酷いとはお思いになりませんか。 特にバブル経済崩壊後は、卓抜した政治指導者の出現が無かったこともあり、国家としての理念も無いままに、日本の社会は迷走をしているとしか言い様がありません。 この間、国民一人当たりのGDPは下がり続け、かっての1位、2位から大きく後退し今や、18位とも22位とも云われるようになりました。 ワ-キングプアなどと云われる言葉も生まれ、年間所得が200万円に満たない人が、1、000万人を越えるなど、日本社会は急速に貧しくなっています。 今年の景況感にしても2/3の人が悪くなるとの予測で、良くなると考えている人は僅か一割程度と云われております。 先達ても、テレビの番組で見た北海道での年金生活のお年寄りが、6万余円の年金と、僅かな預金を引き出しながらの生活で、冬の北海道で生活費の切り詰めの為、暖房もなしとの事で胸の痛い思いをしましたが、日本の国内が、このような事ならば、ODAを始めとする海外援助などする資格がないのではないでしょうか。 国としては依然、世界第2位の経済大国であっても、そこに住む人々が豊かでなければそんな国は糞食らえです。 

また、経済的な貧困もさることながら、心の貧困も重大事です。経済的な問題は適切な施策により早急な改善も期待が出来ますが、心の問題は、戦後60年の年月の中での価値観の変質に由来すると思われますので、これは一朝一夕には片付かない問題と思います。 しかし、連日起こる凶悪事件の数々は、社会として放置できるものではありません。かつては安全神話の評判の高かった日本は、一体どこへ行ってしまったのでしょうか。 一方で自己中心の独善的な人間が、加速度的に増えているのも事実です。昔、若者がお年寄りから叱られるのに”今の若い者は”と 云われたものですが、今の時代は若い世代ばかりでなく、50代、60代の世代でさえ、眉を顰めるような人が増えているように思えます。 このような事は戦後の社会教育の中で一番重要であるべき道徳の部分が、大幅に欠落してしまった事由によるものと考えられます。 これは学校教育ばかりではありません。家庭でも、一般社会でも、その責めを負わなくてはなりません。 最高権力者の総理大臣達も、この事は,かなり早くから分かっていたと思われますが、この事は、思想的な対立にも繋がる問題なので、敢えて先送りされてきたように思われます。 しかし、今は酷い社会になりました。この儘では、更に酷くなるばかりでしょう。 この色々な意味での酷さはバブル崩壊時の首相宮沢喜一の時から加速度的に始まったように思われます。彼はあのバブル崩壊に際して、手を打てば、日本経済がこれほど酷い状況に追い込まれずにすむことを知っていた数少ない人の一人であり当事者です。しかし、彼は知っていながら放置しました。それは当時、自民党が分裂し、今の民主党の小沢氏らが脱党し、政界が激変の最中にあったからと云うのが、彼の言い分でしたが、それはその後の国民経済に与えたダメ-ジを考えれば、とんでもないことです。命を張ってでもせねばならなかった筈です。 その後も酷い総理大臣が続きました。僅かに期待を持てたのが小渕さんで、しかし、途中で亡くなられました。 最近になっては益々悪くなり、格差は当たり前と嘯いた小泉純一郎氏、追い詰められ、椅子を投げ出した阿部晋三氏など、一国のリ-ダ-としての人気は別にして、余りにも役不足役立たずです。 

話の序に一般の大臣たちも、お粗末の一語に尽きます。例えば阿部内閣での日替り大臣など、そして官僚も薬害エイズに懲りず、薬害肝炎の厚労省のお役人たち、接待漬けの防衛省の次官、目茶苦茶年金の社保庁、本当に酷いと思いますが、これらもホンの氷山の一角かも知れません。 は上から下まで、一般庶民の苦しみなど本質的には理解など出来ないのでしょう。 どんな仕事をしていようと、毎月確実に天から金が降ってくるのですから。 これは政の世界も同じことです。

政治家は本来的には官僚より、より高い次元の理念が求められる筈です。そして常に社会的弱者に視点を合わせる存在であるべきです。更には官の誤りを正すのが政治家の筈です。 従って数合わせの為のタレント議員などは論外です。それでも選挙の時は必ず出てきます。残念ですが政治の当事者がこれを決めているのです。これでは政治家の資質の向上など望むべくもありません。 そして大臣に指名されても、官僚の言いなり大臣になれば、大過なくやって行けるでは国民はたまったものではありません。ましてや、総理大臣ともなれば更に高い国家理念を持つ指導者でなくてはなりません。 高い世界観の基に5年先、10年先を見据えた国家理念を掲げられるリ-ダ-でなくてはならないと思います。このような末期的現状を踏まえて、今こそ根本的な大改革が必要だと思います。 

そこで、私なりの提案があるのですが、その全部は、この場ではとても申し上げ尽くすことは出来ません。それでも、その、ほんの一部なりとも申し上げ、諸賢のご参考にさせて頂きたいと存じます。先ず、日本は首相を公選にすべきです。大統領的な権力、権能を与えることにより、一定の期間、次元の低い問題に余り関わることなく、より高い次元の発想、行動が保証される強力なリ-ダ-が選べるような仕組みをとるべきです。 そうすれば、今は無名の存在でも、年齢にも関係がなく、傑出したリ-ダ-が出現するかも知れません。また、徴兵制をひいたら如何と思います。 若者を一定期間徴募して国の為働いて貰うのです。日本は先の大戦の反省から、憲法九条で戦争放棄を謳っておりますが、私も、それについてとやかく申し上げる気はございません。 しかし、アメリカが一つの国是として、合衆国は世界の警察官たるべし、としているようですが、日本でも、これに負けない程度の理念を持ちたいものです。アメリカが警察官ならば、日本世界の救急隊でも良いではありませんか。災害の発生時に、世界の何処へでも、ある程度の規模の人員と装備と物資を持って緊急に行動できるような組織、平時には恵まれない国で、劣悪な環境の改善のため働く組織、それが井戸堀りだったり、地雷の除去でも良いではありませんか。そんな組織を持ちたいものです。 そして、そこの安全を守り、警備する最少限の武装組織があっても良いのではと考えす。 もし、このような組織が出来たら、純粋な平和目的でありますし、世界中から歓迎されるのは間違いないと思われます。 

 しかし、これは単に世界の為のことだけではありません。一番大きな利益を得るのは、日本自身であります。今、現状の変質した価値観を正し、命の尊さを教え思いやりある社会を作る為には、ある程度の過酷な環境で、集団生活を体験することが、なりよりも速やかな回復に繋げられると思います。これこそ失われた社会教育の場になると信じます。 勿論、首相公選と云い、徴兵制と云い、憲法を改正しなくてはなりません。 また、国の取るべき政策も、今のようなぐうたら政策では、決して国は良くならないでしょう。特に経済政策などは、より積極策を講じ世の活性化を目指すべきです。後世に負担を残すべきでないとして、隙あれば増税と云うのは、余りにも安直ではありませんか。苦しくても、何時になれば楽になるとの明示があってこそ、国民も負担に耐えられると思いますが、グランドデザインの提示もなく国家財政の健全化を云うならば、その前に国民生活の健全化を唱えるべきです。この頃、一部の大企業とそれに属する人達が潤って来たからと云って、一般の多くの庶民が、その皺寄せの影響で苦しんでいる現状を何故、無視し続けられるのでしょうか。

             ―*―  次回へ続く ―*―

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3時間で着付けマスター!

私はよく思うのです。

数千年の伝統を誇るきもの文化が、この数十年の間に、これほど衰退をしてしまったのは、他にも理由があり、それらの複合的な要因によるところとは思いますが、中でも最大の問題はやはり着付けが出来ない、難しいと多くの女性が思っておられることにあると存じます。 しかし、私は着付けは本当にはお考えになほど難しくはないと考えております。

確かに恰好良く、綺麗にお召しになるのには、ある程度の練習が必要とは思います。昔の方も最初から綺麗にお召しになれたわけではありません。それでも、毎日お召しになることで、自然に身につかれたのだと思います。これは今でも同じことで、毎日の生活の中のあらゆる機会を捕らえて、お召しになる回数を増やしていただくことが大切だと思います。

それでも、いちばん最初の基礎を身につけていただくためには、着付けに対する難しいと云う思い込みを解消していただくことが、一番だ考えるようになりました。 そこで、近日中に名古屋帯着装の3時間無料着付け教室を企画開催することを決意いたしました。 細目については弊店ホ-ムペ-ジで近々発表させていただく予定ですが、着付けを全くご存じなくても、お越しになり3時間後にはご自分で着付けたきもの姿でお帰りになれるようなものを考えております。 

名古屋帯の帯結びがお出来になれば、袋帯を結ぶのも、さほど大変なことではございません。着付けの初歩に十数回の教習をするなど、あまりにも、勿体ない時間の使い方です。基礎を簡単に覚えていただいて、もっと気安くきものをお召しになっていただきたいものです。どうぞご期待ください。

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