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物事の本質

戦後、日本人は良く働き世界第2位の経済大国を作り上げました。一億総中流とか云い貧富の格差感の少ない、ある意味では世界に類の無い良い国になりました。勿論、一部の富裕層から不満の声が出ておりましたが、私などは、一定の評価をいたしておりました。しかし、バブル崩壊を経た今日は、勝ち組とか負け組とか云われる社会に変貌し、貧しい人は益々貧しくなりました。

私は冬の北海道で、暖房費を節約するためと云って、暖房を切り、早々と布団を被り寝てしまう一人暮らしのお年寄りのテレビ映像を忘れることができません。本当に弱者には辛い世の中になりました。
他方、地球のグローバル化は加速度的に進行し、問題は単に一つの国に留まらず、人類全体に大きな影響を与える時代になりました。それは二酸化炭素の排出に象徴される地球温暖化現象などの自然環境などの問題に留まらず、サブプライムローンに端を発する金融危機、原油価格の高騰などの経済問題、また国際テロリズム、そう遠くない将来やってくる食糧危機など、おざなりの対応では、とても済む話とは思えません。
  今こそ傑出したリーダーの存在が必要です。高邁な将来ヴィジョンを掲げる、強い使命感を持つ人を。こう云う思いは私一人ではないと思います。世の中の多くの人が待ち望んでいると思います。故に、今の既存政党の党利党略には、国民はいささかうんざりしているのではないでしょうか。国民が待ち望んでいるのは、日本はかくあるべきとの将来像を描ける政治家の出現です。ですから、失政続きの自民党も駄目なら、そればかりを追求している民主党も支持が集まる筈もありません。
  こう云う国にしようと唱える政治家が出現すれば、国民は雪崩を打って支持をすると思います。数年前の小泉さんがそうでした。小泉さんは将来像を示すことは全くなかったものの、改革の言葉だけを叫び、ただそれだけで、あれだけの人気を博しました。本当には国民は改革の先にあるものを期待をしたのです。
  それなのに、今の政治家は愚かと云うか、馬鹿と云うか、国の将来像を何故示せないのでしょうか。不思議でなりません。例えば豊かな国が良いか、貧しい国が良いかと云えば誰であっても豊かな方が良いに決まっています。弱者に手厚い思いやりをと云えば、大概の人は同感と答えるでしょう。そんな事当たり前の既成概念だと云う人も多いかも知れません。しかし、今の世はこの当たり前のことがなおざりにされているのです。だから不思議な世の中なのです。
  期待をされるリーダーは、先ずこの辺から確りと明確に説き起こし、こう云う日本を作りたいと将来像を描いて欲しいものです。そして、それが形ならば中身は失われた価値観の再形成、再構築だと思います。今の社会問題の大半の原因は価値観の変質が齎したものなのですから。

しかし、この問題は時間をかけて変質したものですから、回復には時間がかかります。しかも、多分大きなエネルギーが必要と思われます。それでも、絶対に必要なことです。何せ失われた文化の取り戻しとも云えることですから。
しかし、この価値観の、文化の回復が出来れば、日本は世界に冠たる個性ある文化国家として君臨することがでます。
今も政府のどこか片隅の方で学識経験者が教育基本法の改訂に向けた審議をしているようですが、この問題は、その様な次元のものではないと思います。事態はより深刻で、迅速な結論が求められているものです。

第一には家庭教育が欠かせないものと思われますが、問題は教育、躾をする親が駄目、その親たる祖父母が駄目、この人々を取り巻く社会が駄目、勿論、その中には学校も含まれます。更には行政や政財界も昔とは異質になっているように思われます。
それだけに、これは大事業です。もし、成し遂げられる人がいれば、まさしく日本中興の祖とも云われましょう。それでも、何もかも昔に戻れば良いものとは思いませんし、第一無理でしょう。価値観も時代とともに止むを得ない変化があるのも当然と思います、文化も然りです。しかし、本質だけは絶対に大事にしたいものです

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私はこの頃少なからず不安を感じます

私はこの頃少なからず不安を感じます。この世の中は、一体どうなってしまったのか、どうなっていくのか、これは私が少々歳を取ってきたせいなのか、考えると限がありません。
  先に私は田舎っぺ文化というお話しをしましたが、文化とは本来、共通の価値観に基づく精神的な生活感覚に由来するものと思います。昔から年寄りが「今時の若い者は」とよく云ったようですが、私も若い頃、年配者から何度か云われた記憶があります。そして,こう云うことは何時の時代でも云われるものと思ってきました。
  しかし、この頃は自分自身の回りを見ていても、昔から云われてきたこととは、大分に違うとしか思えません。今は若い者どころか50代、60代の年配者でも、歳には関係なく、お行儀の悪い人が目立つようになりました。これは価値観の、文化の変節としか思えません。それでも単なる変化と云っていられるうちは良いのですが、それがモラルの変質ともなると、時代の変化だからなどとは云ってはいられないと思います。
  連日のように殺人事件が起こり、それが通り魔だったり、親子だったり、しかも、その理由が人を殺してみたかったで反省の色もなしでは、余りにも酷すぎではありませんか。マスメディアも
することはありませんでした。
  一方、この様な事態に対応するのは、本来、政であり官である筈ですが、政は自分達の勢力争いに終始するばかりで政治の本質を全く忘れており、官は官で、ご承知の通り社保庁に代表されるように、無責任の極みとしか思えません。
どうして、このような不可解な世の中になってしまったのでしょうか。私は思います。一つは敗戦後の日本に齎された民主主義、この民主主義は大変結構なことでありましたが、それに伴う人権、この人権は、それまでの日本が余りにも酷く弾圧、抑圧をしてきたための反動からか、人権に対する認識が、ある部分、過剰に評価されすぎたことに由来するように思われます。結果、自己中心的に自分のしたいことはする、いやなことはいやだ、その為には他の人間に迷惑が及んでも自分は関知しない、と云う風潮が生まれ今に至っているのだと思います。

それでも、割合に最近までは、日本の伝統的公序良俗に守られてきたのだと思います。そして、今やそのメッキが、殆ど剥げ落ちてきたのだと思います。以前には日本は世界一安全な国だと云う安全神話があり、礼儀正しい恥の文化を持った国とも云われていました。しかし、今や日本は世界一危ないな国とまでは云えなくても、随分とり上げられ、嘆く論調も目にはしますが、世の中は一向に変わりません。昔もこのような特異な事件は無かったとは云えませんが、このように異常なことが頻発それに近づいていることには間違いありません。かなり以前のことになりますが、一時期、新人類と云う言葉が生まれ、流行語になったことがありました。私も、当時の従業員の一人から、私も新人類の一人ですからと云われ、唖然とした記憶がありますが、それらの人も子供を持ち孫もいるようになった現在、この価値の変質は、多くの世代、即ち、社会の大部分が、このような人々で構成される今となっては、容易なことでは回復が難しいと考えます。
  
社会全体が、このように変質しようとしている所為か、一般大衆はもとより、社会現象を報道するマスメディアも、世を憂える論調で非難はしていますが、本質的な問題提起の域までには達しっていないように見えます。また、官の世界でも、相次ぐ不祥事が、次々と発覚し、まさに滅茶苦茶の感がありますが、当事者は、全く罪悪感がなく、そして、その根底にあるものは使命感の欠如以外の何ものでもありません。
更に、この官を率いて国民のための政治を行う大臣なども、お粗末極まりない存在です。官への指導、監督どころか、官僚に頼らずば碌に答えも出来ない。ならばいっそ大臣のポストなど廃止して、事務次官を昇格して任に当らせる方が、よほど効率的が良く経費も掛からないと思います。
また、この様な時こそ国会議員に期待したいものですが、現状を見る限り、これまた遠い夢のような話です。いやしくも議員になり国政に参加したいとの思いで議員になった以上、議員としての責務が何であるかなど、当然、百も承知の筈ですが、最近では自民党の議員さんは過半数の五十数パーセントが世襲の議員で、だからでは無いでしょうが、志など如何でも良く、それが極めて良い就職先だからと云うような人が目立ちます。中には前の衆院選で自民党大勝のときのように自他共に到底なれる筈のない人がなってしまったというとんでもない人も居るのです。生まれた時から苦労知らずのお坊ちゃま育ちでは社会的な弱者などには到底目線が届かないと思います。
このように、この国は質的にも、道義的にも正に惨憺たる有様なのです。取り分け問題なのは、国全体を覆う自己本位な無責任ムードです。深刻な事件が頻発していても、どこか他人事で自分とは関係ないとの捉え方のように思われます。これが上は総理大臣から下は一般大衆までを覆っているように思えてなりません。

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